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NAKAI Hiroshi  /
Drawing / Painting

アーティスト、美術、美術作家、絵画、ドローイング、現代美術、抽象、線、形、日本、神戸、京都、大阪、2kwgallery, Art, Artist, Contemporary art, Abstract, Abstract painting, Drawing, Painting, Line, Form, Japan, Kobe, Kyoto, Osaka

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2023
727x727mm
oil on canvas

​GALLERY 301

NAKAI HIROSHI Exhibition

​カオの出自

​2024/3/ 1.2.3.4.5.8.9.10.11.

​カオはイメージではなく、あえて言うならばユーモアである。

​カオの出自


カオについて何かを語るとしたら、まずは前回の僕の個展「かたちと脈動/Form and Pulse」(2023年7月/2kw gallery)から始めるのが良いかと思う。
オートマティズム<的>な線の重なりから成り立っていく僕のドローイングや絵画の特性を
尾崎信一郎氏はこの個展に寄せたテキストの中で「脈動/Pulse」と名付けている。


中井浩史の絵画の特性に私はあらためてパルス(脈動)という名を与えたいと考える。知られているとおり、パルスとはロザリンド・クラウスが一連の著作において、デュシャンに始まり、エルンストからジャコメッティ、さらにはピカソにいたる系譜の中でモダニズム美術に内在しつつ、それを内部から解体する契機とみなした衝動であった。パルスとは「視覚的空間の安定性を破壊し、その特権を奪うことを本性としている。視覚性を支えていると思われる形態の統一性そのものを解体し、溶解させてしまう力が備わっている」。
中井においてもイメージは安定していない。作家の言葉によれば「絵が絵から開放されて絵の外に軽やかにはみ出していく」感覚こそが求められており、パルスはそのための力なのだ。
形象に従属せず、幾何学にも従属しない中井の線は空間に対して自由である。同様にそれらの線は時間に対しても自由とはいえないか。ポロックの線描が行為の痕跡として過去に留め置かれるのに対して、回転と脈動をともに秘めた線は一つの時制にとどまることなく脈動を繰り返す。
作家の言葉を用いれば「絵の外に軽やかにはみ出していく」のである。この時、絵画それ自体はもはや目的ではない。絵画という場に兆したかたちと脈動、単純にして豊饒なイメージの成立と分裂が見る者の感覚を一新するのだ。


僕も自身の作品にこのような確とは捕らえきれない何かの力を認めている。
尾崎氏が述べているように、Pulseがいわゆるモダニズムの視覚優位性がもたらす抑圧に対して、それを脱力、解体させる契機だと言うならば、Pulseは僕が嫌う脱身体的な<イメージ>の罠からの離脱を叶える望みともなるだろう。
このような画面上の相を僕はざっくりとカオと呼ぶことにした。
カオはときには文字通りに人の顔のようにも、人の姿のようにも見える。(見えてしまう)
そういうものが画面を見た途端に目に飛び込んでくる。
具体的な事物のイメージが画面に見えることを<抽象絵画>は嫌がるが、僕はそれがPulseと同期していればむしろ進んで認めたいと考える。
カオの出自は線、面、形、色彩といった絵画の構成要素、絵画というメデュウムの中にある。
しかしカオはそこから身体感覚という通路を通ってその外に出て行こうとする。
もともと絵画はそれ自体で完結するのではなく、鑑賞者との間に「関係性」を誘発するものだ。
(もっとも、その「関係性」のあり方がいまも問われているのだが)
バタイユが言うところのアンフォルムは、形体でも形式でもなく<操作>である。
同様にカオもまた形体ではなくイメージでもない。
カオは<ユーモア>に近い。
それは説明不能の「笑い」であり、その唐突さは状況を破るあるいは滑らせる力を持っている。

このようにして言葉を重ねていると随分大仰になってきたと感じてはいるが、実際、僕は僕が名付けたカオというものを画面に見ていることは確かだ。
いずれにせよ<イメージ>を嫌う僕にとってカオは大きな手がかりとなっている。

 

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